(都市出版、900円・税込) 『東京人』2008年10月号の特集は「時流にこびない反逆者たち アウトロー列伝」。表紙を飾るのは『麻雀放浪記』著者の阿佐田哲也=『百』で川端康成文学賞の色川武大。写真は40歳のころに撮影されたものだが、そうは見えないほど重々しい存在感を放っている。こんな目をした40歳が、このぬるま湯のごとき現代にいるだろうか。
さて、この「アウトロー列伝」、非常に問題の多い特集であるように思う。同誌のホームページにある「無法者ということではなく、御上に楯突く民衆のヒーロー、反骨精神にあふれる異端者、アンチヒーローとしてのアウトローは、絶えず時代の狭間にいた」というフレーズにはまったくふさわしからぬ内容ではないか。
「アウトロー」として名を連ねるのは、大杉栄、色川武大、山口二矢、高田渡、内田百閒、深沢七郎、竹中労ら。非常に違和感があるのが、山口二矢と大西性次郎。彼らを「アウトロー」の範疇に入れるなら、「アウトロー」の定義や概念について、もう少し深い議論あるいは主張を同時に掲載する必要があったのではないか。
山口二矢については、解説を執筆している鈴木邦男氏が「アウトローという言葉は似合わないかもしれない」と疑念を呈しているものの、「殺人がいいわけはない、しかし、完璧なテロリストとして、整然と完結している」といった文章には、(思想や主張を表現するのが難しい時代にあえてその壁を乗り越えようとする、鈴木氏の表現者としての態度には一応敬服するとしても)物書きの思想というより、何か無神経なものを感じる。「離婚して三十五で岡山から出てきた私も、確かな目標を掲げて上京してきたのではなく、やはり何かの逃避行を続けている」と、自らを強盗殺人の常習犯「ピス健」こと大西性次郎に重ねる岩井志麻子氏にも、やはり無神経さを感じる。
彼らは、想像上の人物でも、小説の登場人物でもない。彼らは、現実社会のなかで、利の通らない殺人を犯した犯罪者である。連続射殺犯・永山則夫の表現活動について、今日に至るまで長く深い議論が続いていることは、自己表現というものがときに大多数の生きる社会の仕組みや常識と矛盾する、そういう現実との相剋(あるいは対話)が簡単には決着しないものであることを意味しており、その文脈においてのみ、あらゆる表現活動が許容されるし、評価される可能性をもっているものと云える。逆に、そういった前提なしに「この男となら逃げたい!」といった無神経な文脈の上でピス健を取り上げる、『東京人』編集部の神経が理解できないし、それに筆で応える岩井氏の神経もまた理解できない(単にこういう芸風の作家だと考えて無視すればいいのかもしれないが)。
「アウトロー」とは何か、それが現代に与えてくれる示唆とは何か、そういったことを考える材料、あくまで材料として、この『東京人』10月号を読んでみてほしい。ちなみに、『東京人』の「アウトロー」に含まれている内田百閒については、車谷長吉氏の解説もきわめて愉快だが、最近発売されたばかりの別冊太陽『内田百閒 イヤダカラ、イヤダの流儀』(平凡社、2415円・税込)も併せて読んでみることをオススメする。(出版WEB担当・川村)





















