
(安田敏朗著、平凡社、880円+税)すでにいくつかの新聞書評に取り上げられているし、ウェブサイト『日経ビジネスオンライン』に掲載された書評「アイヌを愛した国語学者、じゃなかったの」が多くのパーソナルブログにトラックバックされたことで、異常なほどの反響を呼んでいる(この新書が売れていることと同意ではない)から、内容の大筋はご存知の方も多いのではないだろうか。
それにしても、『日経ビジネスオンライン』の書評を執筆した尹雄大氏は、この新書の書きぶりに従って要点のみを忠実に抜き書きしてくれる良い読者であり、逆説的に、著者である安田敏朗氏がところどころで見せる「留保付き」つまり「これこれの事実が前提ではあるけれども」という姿勢をことごとく捨象することで、金田一京助という学者の価値を必要以上に貶めてくれている。これはもちろん、尹雄大氏の責任ではない。著者の安田氏が自らの「文体」にあまりに無頓着なせいである。
尹雄大氏の書評(要約?)を読めば、この新書の「分かりやすくて面白い」であろう部分はだいたい網羅できるので、ここではその要約と言える二つの小見出しだけ記しておく。「アイヌ研究は嫌々やった」「東京の言葉は美しい、地方の言葉は可笑しい」。エキセントリックな小見出しながら、著者の安田氏は確かにそう書いているから、決して尹雄大氏の誤読ではない(余談ではあるが、こういう風な著書の要約を、日経ビジネスは「レビュー」と呼んで平気なのだろうか。ここには筆者の考えや態度がほとんど皆無であるのに)。
しかし、頭を悩ませつつ理解すべきは、尹雄大氏が「筆者の読了時間4時間00分」の間に読み飛ばした(であろう)部分にある。この新書を本当に四時間で読み終えるとしたら、安田敏朗氏の巧妙なレトリックに翻弄されざるを得ないだろう。
第三章から第六章までは、客観的かつ豊富な史料をふんだんに用いた緻密な分析が展開されている。また、「金田一京助」という固有名詞に過剰な意味を持たせず、近代における日本語の形成過程について、分かりやすく説明してくれる。その意味では、この新書自体は安田氏の著作『国語審議会ーー迷走の六十年』(講談社現代新書)の延長上にあると言える。ただし、近代日本語論や金田一京助氏の著作に関してそれなりの知識がある人だと、「この部分だけ引用するのはどうなのか」といった疑問に苛まれて、日本語の近代を考える前に著者の表現者としての資質に疑問を呈したくなり、そうそう先を読み進める気にはならないだろう。というのも、安田氏の文体は、各節の最後や引用文直後の思わず読み飛ばしてしまいそうな箇所に、議論の前提となる重要な但し書きがサラリと(しかし巧妙に)付されたりしていて、思わず誤読を誘うものだからである。
注意すべきは第一章と第二章である。とりわけ、第一章。文章の巧妙さに誘われてここだけ一気呵成に読んでしまうと、第三章以降はすべて色眼鏡をかけたまま、「日本語の近代」に関する考察は読み飛ばし、金田一京助の舌禍事件のごとき引用部分ばかり拾い読みすることになってしまう(『日経ビジネスオンライン』の「レビュー」はまさにその好例と言えよう)。それも、安田氏のじつに論理的で研究者らしい明晰さはあるが、しかし武器としての言葉の威力をわきまえない書きぶりのせいである。
たとえば。金田一京助について、「要は、人格は高潔で学識も高い、非の打ちどころのない人物、ということになる」と安田氏は言うが、帝国学士院恩賜賞、文化勲章を獲得したからとて、また近親者がその人格を評価したからとて、非の打ちどころのない人物であるとは言えまい。「金田一がどういった意図でもってアイヌ語の研究をはじめ」たのかなどの事実が、「業績が生み出される過程と不可分」と安田氏は言うが、逆にそういう初期的な意図を業績と過剰に結びつける考えは、必ずしも有効なのだろうか。石川啄木の「転回」について、「自身の社会主義への嫌悪とあいまって、『記憶』が変形したらしいのであるが、それを認めることは決してなかった」とまで、安田氏が断言できるのだろうか。また、研究者の斉藤力氏が「調査対象のアイヌ民族から忌み嫌われる金田一の姿を指摘している」ことのみを前提に、アイヌ民族で参議院議員を務めた萱野茂氏が、金田一氏の追悼集『金田一京助先生の思い出の記』に「情感のこもった一文を寄稿している」ことを評して、「大人である」とする安田氏の皮肉めいた態度は、そこに積み重ねられた複雑な人間関係を(たとえ瑕疵のあるものだったとしても)過剰に単純化するものではないか。
さらに、書評子の問題意識から、どうしても指摘しておきたいことがある。安田氏が金田一氏の対談における次のような発言を引用して「こうした態度は尊敬に値するのかどうか」と書いていることである。
「京助 [・・・]あのころ来たアイヌは、家中毛を落として歩いたり、なにしろ昔風のアイヌだったものだから、体臭が強いしね。いっしょにご飯を食べるときは、むこうの習慣で、箸についたあぶらを髪になすりつけたりするのでね。母さんはほんとうにいやがった。子ども心にもやはりいやだったんだね」
この引用部分からは(そして実際に今日残された金田一の発言からも)確かにアイヌに対する金田一氏の差別意識が感じられる。金田一氏がアイヌ同化政策を肯定していたことは公然の事実であり、忘れられがちな、また美化されがちな金田一のこのような心的態度を指摘し、それを(専門家以外にも読者が多い)新書のスタイルで広く知らしめようとする安田氏の意図は分からないでもない。だが、この問題を「尊敬に値するかどうか」というレベルの文脈に落とし込んでしまうのは、表現者であり、教育者でもある安田氏の立場(同氏は一橋大学准教授)を考えると、とうてい是認できるものではない。
ここでこの問題を突き詰めるのは、本書を批評、紹介するこのページの性質からいって難しいが、議論の材料として二つだけ論点を記しておきたい。一つは、当時のアイヌ民族に対する社会の視線、同時代の関係者による他の発言と比較して、金田一氏の発言のみが際立って批判されるべき状況だったのか、安田氏は今日の差別問題に関わる視点あるいは価値観から遡上して、当時を批評していないか、ということ。もう一つ、金田一氏と同時代を生きた作家・谷崎潤一郎氏の心的態度について、同じく作家の中上健次氏は『物語の系譜』の中で、谷崎氏を文壇唯一の差別主義者であると指摘しているが、この中上氏による考察を踏まえた上で言うと、安田氏は根本において(そしておそらく筆者を含めた現代人の多くも)金田一氏の差別主義的内面を共有しているからこそ、「尊敬に値するのかどうか」と問えるのではないか、ということである。差別主義の問題は、ある差別的感情を発言するか否か、にあるのではない。
「日本語の近代」だけでなく、われわれが日本語を用いて、日本人の経験に拠って立ちながら、日本語のあり方について考えることの難しさについて、良くも悪くも考えさせられる新書である。くれぐれも四時間で読了しようなどと考えないでほしい。(出版WEB担当・川村)





















