
(岡真理著、みすず書房、定価2800円+税)
飢えて今にも死にそうな子どもは本など読めないにちがいない。だが、その子が実際問題として文学を読めないという事実は、その子が文学を必要としていない、ということを意味するのだろうか。瀕死の床の中で小説が読めたとして、その子は遠からず死ぬ。だが、その子が死ぬことが100パーセント確実であるとして、だから小説はその子にとって無力である、いま小説を読むことがその子にとって何の意味もないと、なぜ、言えるだろう。
第二次インティファーダ(イスラエル占領下におけるパレスチナ人の一斉蜂起・抵抗運動)に対するイスラエルの攻撃が頂点を迎えた2002年4月、本書『アラブ、祈りとしての文学』の著者・岡氏は「外を動いているものは猫でも撃たれた」という外出禁止令下にあったパレスチナ自治区・ベツレヘムの街を、パレスチナ人の青年たちに案内されて回ったという。
伝統的な白い石造りの家に案内された岡氏は、パレスチナの家庭を訪ねると必ず振る舞われるという、大きなガラスのコップになみなみと注がれたレモネードを飲みながら、家族から話を聞いた。その家のバルコニーには、色とりどりの花が太陽の光を浴びて咲き乱れていた。何週間も外出を禁じられ、洗濯物を干すためにバルコニーに出て撃ち殺された人もいるなかで、彼らが花の手入れをし、また、客人をもてなすレモネードを切らしていないことに驚きながら、岡氏は「何週間も自宅で"囚人"になっている」ことについて尋ねた。
「ときどき気が狂いそうになることがある」と答えた家族。そのなかで、20代半ばの娘さんが「でも、本を読んだりして気を紛らわしています」と語った。岡氏は本書のなかでこう述懐する。何の本を読んでいるのか訊ねはしなかったので、それが文学作品かどうかは分からない。でも、彼女のその言葉は、パレスチナでパレスチナ人が生きていることそれ自体が犯罪であるかのように、日々人が殺され、自らの祖国で占領の捕囚となっているとき、文学は何ができるのか、その問いに対する紛れもないひとつの答えとしてあった。文学は、人間がこのような不条理な情況にあってなお、人間として正気を保つために、言い換えれば人間が人間としてあるために存在するということ。バルコニーを彩る花、客人をもてなすレモネードと同じように。
ベツレヘムの娘さんが言った言葉は、アラブ文学者である岡氏が「パレスチナでパレスチナ人が虫けらのように殺されているとき、文学は何ができるのか?」という自分自身への問いかけに対する答えであり、「アフリカで子どもが飢えて死んでいるのを前に文学は何ができるのかと問うたサルトルの問い」に対する答えでもある。
「作家たるもの、今日飢えている二〇億の人間の側に立たねばならず、そのためには文学を一時放棄することも止むを得ない、というサルトル」に対して、岡氏は冒頭の文章を投げかけた。「アフリカで飢えて死んでいく者たち、彼岸の飢えている二〇億の人間たちこそが、ほかの誰にも増して切実に文学を必要としていると言えるのではないか」と。
岡氏はさらに、イタリアの作家、プリーモ・レーヴィの代表作『これが人間か』の一場面、レーヴィ自身が親友にダンテの『神曲』を語って聞かせ友人もまた全身全霊で耳を傾けるシーンについてこう語る。
レーヴィの友は解放を目前に、絶滅収容所の証拠隠滅を図る親衛隊によって他の収容者たちとともに連れ去られ(いわゆる「死の行進」)、二度と戻ってこなかった。その意味で文学は彼を救いはしなかった。だが、それでも、アウシュヴィッツで人が人たることをやめ、生きながらにして死んでいるときに、『神曲』はレーヴィとその友人にとってかけがえのない魂の滋養であったことを、もしレーヴィが生き延びえなかったならばーーそれはじゅうぶんにありえたことだーー忘却の穴に葬り去られていたそのことを、私たちは、彼の奇跡的な生還によって知る。もっとも非人間的な情況におかれた彼らこそが、しかし、それゆえに誰よりも切実に文学を、芸術を、必要としていた。(中略)人間が人間であることの臨界点を現出させたアウシュヴィッツで、文学が人間存在の根源においてその生を支ええたなら、アフリカにおいてもそうではないのだろうか?
本書では、先日、河出書房新社から『ハイファに戻って/太陽の男たち』(新装版、定価2310円・税込)が出たばかりのガッサーン・カナファーニーをはじめ、さまざまなアラブ系作家の作品が取り上げられている。岡氏の解説に導かれたそれら作品の数々は、疲弊したいまの日本で生きる私たちにとっても、「文学」が本来持つ「魂の滋養」になるに違いない。(出版WEB担当・湯田)





















