
最近の若者は酒を飲まなくなった、「飲む、打つ、買う」の無頼漢がいなくなった・・・年配の方々と一献傾けていると、そんなボヤキをよく聞く。おかげでみんな長生きするようになったし、飲酒運転も減ってきたし、「打ったり買ったり」で身を持ち崩す人も減ったんだから、まあいいじゃん、なんてかるく受け流してもいい。もちろん、そうですよね、大酒飲んで文学論をぶつような、そんな器のおっきいヤツがいなくなったのは、なんとも時代のせいでしょうか、みたいに話につきあってあげてもいい。どちらにしても、酒の飲み方をめぐってオジさんがボヤき、若者が頭をたれる光景は、そんなに悪いものでもない。
みんなが仕事帰りに居酒屋で一杯ひっかけていく時代がいいのか、酒に飲まれずみんなが家庭の時間を大切にする時代がいいのか、そんな問いはヤボというものだ。
「古事記と前後して、奈良朝時代(700年代)に編さんされたといわれる「播磨風土記」に<神に供えた糧が枯れて、かびが生じた>ので、<すなわち酒を醸さしむ>とあるのが、米を原料とした酒についての最も明らかな記述とされています。有名な「魏志東夷伝」の「倭人の抄」(200年代)では倭人のことを<人性酒をたしなむ>と評し、喪に当たっては弔問客が<歌舞伎飲酒>をする風習があることも記されており、我が先祖が古くからお酒を愛していたことがうかがえます」(日本酒造組合中央会ホームページより)
というくらい、日本人は古くから酒とつきあってきたのだから、そう簡単に忘れられるはずも、離れられるはずもない。冒頭のようなボヤキが意味するところを翻訳すれば、要するに、生きてくのもツラいこんな時代だけど、酒でも呑んで一緒に生きていこうよ、な、若者よ、そうだろ・・・とでもなろうか。酒の要不要など、価値判断の対象にはなりえないし、そんな小ムズカシいことを言ってはいけない。
最近出たコロナブックス『作家の酒』(1600円+税、平凡社)は、作家のようにカッコよく酒を飲みましょう、という本ではけっしてない。荻窪、阿佐ヶ谷、新宿と毎晩のように文化人たちと夜の街を流れた作家・井伏鱒二のようなスキモノもいれば、酒に酔って女を口説いたり、愚痴をまき散らす人間を毛嫌いした立原正秋のような酒場紳士もいた。大酒豪のように見えて、バーでサントリーオールドをチビチビやる紀伊国屋書店の創業者・田辺茂一のような傑物もいた。
カッコよく、大風呂敷を広げて酒を飲んだこんな大作家たちが街を闊歩していた、あの時代が懐かしいね。そんな感想をいだく読者もいるだろう。けれども、こんな声も聞こえてこないだろうか。いくら呑んでもいいし、呑まなくたっていい、世界は酒場のように自由なんだ、あんまり深く考えるな、楽しくやっていくさ、と。作家たちが恵まれた生活のなかで人生を謳歌していたのは、まあ事実だ。が、本書に掲載された、グラスや猪口を手にした作家たちの満たされた表情を、じっと、じっと、見つめてみてほしい。はたして、そんな理由だけで、こんな表情になるものだろうか、なれるものだろうか。(K)





















